あのときの僕には、想像もつかない着地点だった。14年6月24日のコロンビア戦で、完膚なきまでに打ちのめされた直後の自分には──。
『適任者』アギーレ、まさかの解任
ブラジルからロシアへの歩みは、いつもの日本代表とは違った。かなり異質なものだった。ザックことアルベルト・ザッケローニから監督を引きついだのは、メキシコ人のハビエル・アギーレだった。日本サッカー協会にとっては、長くアプローチしてきた対象である。彼の母国は98年から6大会連続で、W杯の16強入りを果たしている。彼自身も選手、監督として、決勝トーナメントの舞台に立っている。ザックにはなかったW杯での経験を持つ指揮官として、日本はアギーレを迎えたのだった。
彼は選手を縛らない。この点は前任者と同じだ。ザックと違ったのは戦術である。チームが4年間慣れ親しんできた4-2-3-1ではなく、4-3-3からチーム作りをスタートさせた。選手の受け止め方は、おおむね好評だった。アギーレが次世代の選手を招集したことも、チーム全体を刺激していく。初陣となった9月のウルグアイ戦では、まったくの無印だった坂井達弥と皆川佑介をスタメンに抜擢した。森岡亮太、柴崎岳、武藤嘉紀らも、アギーレにチャンスを与えられた。
初の国際大会となった15年1月のアジアカップは、準々決勝でUAEにPK負けを喫する。ベスト4以下に終わるのは96年大会以来だったが、チームの立ち上げから6試合で大会へ突入したこともあり、結果を問うのは時期尚早との意見が大勢を占めた。アギーレが大きな批判にさらされることはなかったが、予想外の角度から問題が降りかかる。かつて采配をふるっていたスペインリーグで、八百長に関与していた疑惑が浮上したのだ。スペインの検察から事情聴取を受けるとの報道もあり、サッカー協会は日本代表の強化に影響が出ると判断する。双方合意のうえで、15年2月に契約が解除された。
世界基準と日本人らしさのバランスに苦慮したハリルホジッチ
後任にはヴァイッド・ハリルホジッチが選ばれた。6月にはW杯予選が控えており、チーム作りの空白期間があってはいけない。なかば消去法的な監督選びだったが、ブラジルW杯でアルジェリアをベスト16へ導いた男である。世界の舞台では格上にチャレンジする立場の日本に、ふさわしい監督と言うことができた。チーム作りは波乱に満ちていた。目に見えるものではないが、当事者たる選手たちも、ファン・サポーターも、メディアもはっきりと感じていた序列を、ハリルホジッチは嫌った。フラットな視線で選手を評価するスタンスは、基本的には誰もが納得できるものだっただろう。
もっとも、チーム作りは順調に進まない。6月のW杯2次予選の開幕戦で、シンガポールにホームで引分けたのは、未来を暗示していたのかもしれない。2次予選の開幕戦でも、UAEにホームで逆転負けを喫するスタートとなる。主力の海外組が所属クラブで出場機会を失っていたことも、ハリルホジッチのチーム作りを難しくしていた。ここでハリルホジッチは、リオ五輪世代の積極的な登用へシフトする。久保裕也、浅野拓磨、井手口陽介らが決定的な仕事をし、大迫勇也や原口元気らの中堅層がポジションをつかむことで、ハリルホジッチはチームをロシアW杯へ導くことができた。
風向きが変わったのはW杯予選突破後だった。テストマッチで結果が出ないことで、選手たちはW杯への不安を募らせていく。ハリルホジッチが提示した二つのキーワード──「タテへの速さ」と「デュエル」は世界のスタンダートだと認めることができるものの、日本人らしさが置き去りにされていることを、選手たちは消化できずにいた。
批判上等、アクティブなスタイルで戦い切った西野朗
W杯開幕2か月前の監督交代は、ギリギリの決断だった。代えるタイミングはそれ以前にもあったが、サッカー協会は後任を絞り込めなかった。4月の西野朗監督就任は、遅きに失した感が否めない。それでも、批判が集まることを覚悟のうえで、サッカー協会と西野監督は新たな局面へ進みだすことを決断した。
1勝1分1敗での決勝トーナメント進出については、必ずしも評価が集まるものではないかもしれない。10人のコロンビアに勝っただけで、そのほかの3試合は勝ち切れなかった、という声もあがっている。本当にそうだろうか。結果はこれまでと大差ないかもしれないが、内容は明らかに違う。日本人らしさを大切にしながら、日本人らしさに寄りかかることなく、自分たちからアクションを起こすサッカーを見せた。勝ち切ることはできなかったが、引き分けたセネガルも、FIFAランク3位のベルギー戦も、日本は勝ち切ろうとした。
ベルギー戦後に聞こえてくる評価や批判は、チームが力を出し切ったからこそ生まれたものである。日本は何ができるのか。日本人には何が足りないのか。世界のトップ・オブ・トップに真正面からぶつかったことで、我々は未来への指針を見つけることができた。自分たちの可能性に対して明るい見通しを描けるのは、10年の南アフリカ後にも、14年のブラジル後にもなかったものである。(文・戸塚啓)
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