2020年に開催される東京五輪。本連載では、活躍が期待される注目株の生い立ちや本大会への想いに迫る。
4回目は、力強いドリブルと豪快なシュートが持ち味の、大学屈指のアタッカー旗手怜央が登場。
三重県の強豪チームFC四日市で小学、中学時代を過ごし、高校では名門・静岡学園へと越境入学する。
そして順天堂大へと進学後、世代別の代表にも選ばれ、メキメキとその頭角を現わしてきた。来年には川崎フロンターレへの加入が内定している。大学サッカーの枠を飛び越えて活躍する21歳はどんなサッカー人生を歩んできたのか。前編では、好奇心旺盛だった幼少期から、静岡学園に入学するまでに迫る。実力者が集まる名門校・静学でアピールできた要因は――。
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――サッカーを始めたきっかけは?
「これといったきっかけはなく、気づいたら始めていましたね。元々身体を動かすのが好きだったんですよね。野球をやっていた父親の影響もあって、幼稚園の頃から、サッカーだけでなく、よくキャッチボールもしていました」
――本格的にクラブに入ってサッカーに取り組んだのは?
「小3でした」
――野球ではなくサッカーを選んだのはなぜ?
「当時の友だちがみんなサッカーをしていたからです。その流れに乗った感じです。でもサッカーのクラブに入ってからも野球はやっていました。土日にサッカーの練習、平日は野球、みたいな」
――かつて高校野球で活躍したお父さん(旗手浩二氏/PL学園で甲子園に出場。84年には夏冬連続で準優勝を果たした)にとっては、複雑な心境だったのでは?
「もしかしたら野球をやってほしかったのかもしれないですね。でも今はすごく応援してくれていますよ」
――当時、何か言われたりは?
「いえ、特に。普通にサッカーをやらせてくれました」
――サッカーと野球を両立させるのは大変だったのでは?
「そんなことないです。遊びでやっていただけだし、なにより楽しかったですから。流行りのテレビゲームはなんか好きになれなくて、身体を動かすほうが好きだった。サッカー、野球、鬼ごっことか、毎日外で遊んでいましたね」
――幼少時代も活発だった?
「ずっと自転車を乗り回していたのを覚えています。結構早いうちから補助輪なしで走っていたんですよ。あとは仮面ライダーごっことかもしていました。とにかく好奇心旺盛でしたね」
――やっぱりお父さんの影響ですか?
「それは間違いないですね」
――兄弟もスポーツを?
「姉がいます。姉はテニスをやっていました」
――スポーツ一家ですね。
「そうですね。母もバレーボールや乗馬や、テニスをやっていました」
――身体能力が良いのは、遺伝かもしれないですね。
「たしかに、あまり僕は怪我をしないし、運動能力は良いほうです。それに関しては両親のおかげかもしれません。有難いです」
――小学生の時は、三重のFC四日市でプレーしましたね。どういった経緯で?
「小学校(鈴鹿市立牧田小)の少年団で1年間くらいやって、小4からFC四日市のジュニアチームに入りました」
――FC四日市に移ったきっかけは?
「もっとうまくなりたいという想いがあって、小学校の少年団だけではなく、鈴鹿近辺のクラブチームの練習に参加していたんですよ。そんな時にFC四日市を紹介してもらったんです」
――三重ではかなり強いチームです。
「プロだと和泉竜司くん(現・名古屋)とかも輩出していますしね」
――中学生では、そのままFC四日市に在籍しますね。
「他にいこうとは思わなかったです」
――中学でも続けようと、サッカーにのめり込んでいった理由は?
「ゴールを決めた時の嬉しさや、日々、自分の成長を感じられる部分に惹かれていきました」
――小さい頃から攻撃の選手だったのですね。
「攻撃が好きな性格なので。野球でも打つほうが楽しかった」
――高校では静岡学園を選びます。越境入学を選んだ理由は?
「三重の強豪と言えば四中工で、毎年のように全国選手権に出場しているので、自分も初めはそこに行こうと考えていました。ただ、悩んでいるうちに気づいたんですよね。選手権に出るだけがすべてではないなって。なにより、プロになりたい、うまくなりたい、という気持ちを優先したかった。だから、個の技術を一番大切にしていて、プロの選手もすごく多く輩出している静学を選びました」
――中学の時からプロになるためのルートを考えていたんですね。
「まあ特別深くは考えていなかったですよ。漠然とプロになれたらいいなと」
――クラブユースに入る気は?
「中学時代はまったく無名だったので、ユースなんていけるなんて思わなかったし、そんな考え自体がなかったです。ユースってセレクションがあるじゃないですか。それと比べれば静学は入りやすかったので」
――静学は推薦で入学したのですか?
「中学の時の監督に『静学にいきたい』と伝えて、練習参加の打診をしてもらったんです。それで練習に参加させてもらった時に、シュート力を見込まれて、推薦で入学させてもらった感じですね」
――ひとりで静岡に?
「はい。寮で生活していました」
――高校生でいきなり寮生活は、大変だったのでは?
「1年生の時はきつかったです。食事、食器洗い、掃除とか色々な当番があったので。それまで親に任せていた家事を、全部自分でやらなければいけなくなって。入学当初は身の周りのことで手いっぱいで、練習どころじゃなかった時期もありましたね。洗う食器も50人分くらいあったし、洗濯物の量も多い。いつもビブスを30枚、40枚くらい洗っていました」
――静岡学園の部員はかなり多いですしね。
「僕がいた頃は150人くらいいました。今はもっと増えて200人くらいいるらしいです」
――そうやって全国から実力者が集まってきます。そのなかでどう自分をアピールしようと?
「川口(修)監督にはシュート力を評価してもらっていて、ポジションが中学時代のボランチから前目になったのは大きかったです。ただ僕は入学当初、技術だけで言えば静学では下のほうでした。このままでは生き残れないと危機感すら抱いていたくらいです。だけど、僕には唯一“やり続ける”能力だけはあったんですよね。ひとりでゴールを決められるように、3年間ひたすら個の力を磨きました。それがアピールにつながったんだと思います」
――技術で劣っていると痛感した時、それでも折れなかったのはなぜ?
「『試合に出たい』『トップチームの緑のユニホームを着たい』という明確な目標があったからこそ頑張れました。あとは仲間に刺激をもらったのもありましたね。1年生の夏前からトップチームに上がっていた同級生がひとりいたんですよ。普通そういう時って気持ちが浮ついてもおかしくないけど、その選手はチームの練習が終わってからも、ずっと自主練をやっていたんです。
大体16時半から練習がスタートするトップチームと違って、僕ら下級生は18時半に始まって、終わった頃にはもう20時半くらいになる。それからまだ練習するなんて、僕にとっては衝撃でした。でも自分よりも上にいる選手がそれだけ努力しているのに、自分が怠けていたらどんどん差が開くだけだと思って、それから僕も自主練をやるようになりましたね」
――旗手選手はいつからトップチームに絡むように?
「1年の後期から、プレミアリーグに少しずつ出場させてもらいました。2年生になってからは、夏前までは全然出られなかったんですけど、夏過ぎにフォーメーションを3-4-1-2に変えて、うまく左ウイングバックにはまって、そこからはずっと使ってもらっていました」
――ウイングバックは、守備も求められるポジションです。
「たしかに守備は手こずりました。攻撃面では、個人でどんどん仕掛ける僕のスタイルに合っていたし、監督にも個でゴールに向かう能力を見込んでもらってていて。でも初めは守りになるとてんでダメ。毎日いろんな人に1対1の練習を付き合ってもらっていました」
――守備に本気で取り組んだのがその時期?
「そうですね。でも帰陣のタイミングやポジショニングは難しくて……とにかく対峙した相手に負けないことを考えて対人だけは磨いていました」
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活発で好奇心だった少年は、いつの間にかサッカーにのめり込んでいった。好きなことだからこそ、『うまくなりたい』という強い気持ちが芽生えたのは当然だった。そして名門・静岡学園に入学。初の寮生活に四苦八苦しながらも、仲間とともに切磋琢磨し、技術を磨いていったのである。
7月15日にお届けする中編では、10番を背負った高校3年次から大学進学までを深く掘り下げる。一度はスタメンを外される時期にも腐らなかった――そのエネルギーの根源とは。
PROFILE
旗手怜央/はたて・れお/1997年11月21日生まれ、三重県出身。172㌢・70㌔。FC四日市ジュニア―FC四日市―静岡学園高―順天堂大(2020年川崎加入内定)。高校時代には2年次の全国選手権に出場し、チームのベスト8進出に貢献。10番を背負った3年次には全国大会には出場できなかったものの、高校卒業後に順天堂大に入学した。1年次に関東大学サッカーリーグで9ゴールを決めて新人王に輝くと、2年次には全日本大学選抜や世代別代表にも選ばれるようになる。3年次には複数のJクラブの練習に参加し、2020年の川崎への入団が内定した。
取材・文●多田哲平(サッカーダイジェスト編集部)
記事提供:サッカーダイジェストWEB